なぜ、我々はマネジメントの道を歩むのか/田坂 広志 08006 | 年間365冊×今年20年目 合氣道場主 兼 投資会社・コンサル会社 オーナー社長 兼 グロービス経営大学院准教授による読書日記

なぜ、我々はマネジメントの道を歩むのか/田坂 広志 08006

田坂 広志
なぜ、我々はマネジメントの道を歩むのか
人間の出会いが生み出す「最高のアート」
★★★★★

今年の初「田坂広志先生」は、この本。


前回読んだ時には、

あまりに重すぎて受け止めきれなかった。


この本も、素晴らしい氣付きと示唆を与えてくれる。



 「反面教師」という言葉の落とし穴


 しかし、この「人間学」の学びにおいて、

 決して忘れてはならないことがある。

 我々が決して忘れてはならない、

 大切な心構えがあります。


 「他の人物の姿は、すべて、自分の中にもある」

 

 その心構えです。


 では、なぜこの心構えが必要か。

 なぜなら、「人間学」の学びにおいて、

 我々がしばし陥る過ちがあるからです。

 

 「他者を、裁いてしまう」


 その過ちです。


 すなわち、他の人物が示す残念な姿を見たとき、

 心の中で、裁いてしまうのです。


 「あの姿は、残念な姿だ」


 そう思うのは構わないのです。

 しかし、その後、心の中で、こう考えてしまう。


 「自分は、あのような姿は示さない」

  自分は、あの人物とは違う人間だ」


 そう考えてしまうのです。


 この瞬間に、我々は、

 その人物よりも「高み」にたってしまう。


 それは、我々のエゴが、密かに求めるものです。


 「高みに立って、人を裁く」


 それは、我々のエゴが、密かに喜ぶ瞬間であり、

 我々が陥る、最も大きな落とし穴です。


 そのエゴは、例えば、

 一つの言葉を使うときにも忍び込む。


 「反面教師」


 この言葉を使うときにも、

 心の中で、こう考えてしまう。


 「あの人物の姿を反面教師として、学ぼう

  自分は、あの人物とは違う。

  決して、あのような姿は示さない」


 こうして、我々は、

 密やかなエゴに導かれ、

 いつも、他者を裁いてしまうのです。


 では「裁かぬ」とは、いかなることか。


 たとえば、「反面教師」という言葉を使うのならば、

 このような意味で、使うべき。


 「あの人物の姿を反面教師」として、学ぼう。

  あの姿は、自分の中にも、ある。

  そのことを、あの人は、教えてくれたのだ」


 それが「反面教師」という言葉の、本当の意味です。


 だから、申し上げたい。


 「他の人物の姿は、すべて、自分の中にもある」


 他の人物の残念な姿を見たとき、

 まず、その心構えを定めるべきでしょう。

 そのとき、我々は、言葉の本当の意味での

 「謙虚さ」を身につけるのです。


 そして、その謙虚さを身につけたならば、

 氣がついて頂きたい。

 先ほど述べた言葉の、

 もう一つの意味に

 氣がついて頂きたい。


 「他の人物の姿は、すべて、自分の中にもある」


 それは、決して、

 「他の人物の寂しい姿は、自分の中にある」

 という意味だけではない。


 「他の人物の素晴らしい姿もまた、

 自分の中にある」


 その意味なのです。


恐ろしいほど、自分に当てはまる。


高みから見下ろして

他者を裁く傲慢な自分。


もう、今年はそんな自分は

卒業しなければ。



なぜ、我々はマネジメントの道を歩むのか/田坂 広志 07245